大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

全国から人を呼ぶ!
目指すは通天閣の観光地化

2005年(平成17年)に取り組んだビリケンさんのPR活動が功を奏して、通天閣には遠方からの観光客が増えました。そして私はその勢いのまま、観光に特化した施策を強化していきました。

【中編】で述べた通り、大阪府民の新世界に対するイメージは基本的にマイナスで、なかなか変えられるものではありません。であれば、新世界をよく知らない遠方の方に向けて観光地としてPRしたほうが、色眼鏡で見ずに興味をもって訪れてもらうことができ、地域再生には近道だろうと考えたのです。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

施策を考えるにあたって参考にしたのが、大好きなディズニーランド。私は常々、一番になる必要も、パイオニアになる必要もないと考えていて。他社の成功事例を、いかに自分の感性でオマージュできるかを大切にしているんです。

そこで、日本一の集客を誇るテーマパーク・ディズニーランドにあって、通天閣にないものは何か。その一つが周年イベントでした。ちょうど2005年(平成17年)が二代目・通天閣誕生50周年であったことから、“50”を絡めたさまざまなイベントを実施。その後も周年を大切に、2012年(平成24年)には新世界全体を巻き込んで、初代・通天閣誕生100周年イベントを大々的に行いました。

他にも、2019年(平成31年)までの間にさまざまな改修工事を実施。5階展望台は秀吉の金の茶室のように黄金に装飾し、4階展望台は派手な照明とミラーボールが煌めく中、爆音のBGMが鳴り響くディスコ空間に変貌しました。3階屋上は「通天閣庭苑(ていえん)」という名の和風庭園に。地下1階は関西にゆかりのある食品メーカーのアンテナショップを集めた「通天閣わくわくランド」とし、限定商品なども数多く取り揃えています。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

さらに展望台の上に注目し、開放的な特別屋外展望台「天望パラダイス」を設置。その後、空中へと突き出すスリル満点の跳ね出し展望台「TIP THE TSUTENKAKU」を増設しました。避雷針の高さを3mから8mに変更し、塔全体の高さを神戸ポートタワーと同じ108mまで伸ばしたのもこの頃です。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

数々の取り組みを行う中で、とにかく意識したのは印象に残るものづくり。とことんやり切った結果クレームや批判もありましたが、それだけインパクトを与えられたとも言えるわけで。結果的に2007年(平成19年)から2019年(平成31年)の間、13年連続で年間入場者数100万人を突破しました。

一方、街の変化に対応できず、逆に衰退した方もちらほら。地域に根差し、地元住民を相手に商売をされていたお店などは、観光客向けにシフトできず閉店してしまったのです。これは成功の代償としてずっと私の心残りであり、この罪悪感は一生背負っていくものだと考えています。

正真正銘の危機、
先が見えないコロナ禍の進み方

順調に入場者数が推移する中、私は2019年(平成31年)に代表取締役社長に就任。さらなる発展を目指していた矢先の2020年(令和2年)1月、世間に国内初の新型コロナウイルス感染者確認のニュースが流れました。当初は遠い中国の話だからと呑気に構えていたのですが、それも束の間。みるみるうちに状況は悪化していきました。

客足が遠のくほどお土産の在庫は膨らみ、お菓子の中には賞味期限が迫るものも。そこで、当時は斬新だったお土産お菓子のセールを行いました。まだオンラインショップを整備していなかったので、従業員が手分けして電話注文を受け、一つずつ手作業で段ボールに詰めて発送しました。

そうして何とかしのいでいましたが、とうとう4月7日に緊急事態宣言が発出。それでも周りの方々から「通天閣は閉めないで!」「新世界はコロナに負けずに頑張ろう!」と言われていたので、7日も時間通りオープンしましたよ。ところが、ふたを開けると周りのお店はみんな休業!「開けてるのウチだけやん!?(笑)」ということで、通天閣は1日遅れの8日から休業期間に入りました。

ただ、この時ばかりは、従業員の前で悔し涙を流しましたね。想像以上の展開に、先を読んで行動するのが得意なはずの自分が、全く先が見えずに何もできないという……。入社以来、二度目の白旗を揚げた瞬間でした。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

とはいえ、この状況がずっと続くわけではないと。今のうちに何かコロナ禍明けの強力な起爆剤となるコンテンツを生み出そうと、従業員間でアイデアを募りました。その中で最も安全かつダイナミックということで実現したのが、【前編】で紹介した「TOWER SLIDER(タワースライダー)」です。コロナ禍でお客さまが来られないからこそ、思い切って大掛かりな改修工事が進められました。

また、通天閣は当初より、新型コロナウイルスの感染状況を示す大阪府の独自基準「大阪モデル」に沿ったライトアップに協力してきました。始める時は事前の打診が無く寝耳に水でしたし、周囲からは「通天閣が赤くなったら、新世界全体が危険な街だと言っているようなもの! それじゃあ人が来なくなってしまう!」と非難の嵐。ただ、私は緑になった時のことを考えていて。通天閣が緑色になれば、ここはどこよりも安全な街だと広くアピールでき、安心してたくさんの方に来ていただけるようになるという確信のもと、協力を続けて現在に至ります。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

今なおコロナ禍にありますが、2年前の休業前後に比べれば、状況は着実に良くなりつつあります。その証拠に今年のゴールデンウィークの入場者数は、コロナ以前の7~8割まで回復。元々インバウンドの外国人観光客が2~3割程度だったことを考えると、ちょうどその分がゼロというだけで、日本人観光客はコロナ禍以前の水準にまで戻ったということを示しています。

5月9日にオープンした「TOWER SLIDER」も初日から行列で、連日400~600人のお客さまに楽しんでいただいています。北海道から沖縄まで全国各地からお越しいただいており、ようやく活気が戻ってきましたね。

これからも通天閣の、
新世界のスポークスマンとして

これまでさまざまな改革を行い、通天閣も新世界もずいぶんと明るく楽しく賑やかになってきました。けれど私が常に思っているのは、自分は決して偉くないということ。周りの方々の助けがあったからこそ今がある、感謝の気持ちを忘れたことはありません。

私は通天閣の、新世界のスポークスマンであり、地域の内外とつながり発信し続けるのが役目。そう考えてこれからも通天閣を含め、新世界の街全体が輝けるように力を尽くしたいと思います。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

「次は何をしてくれるの?」と周囲からの期待も高いですが、通天閣は新世界のシンボルとして失敗したくないというか、絶対に失敗できないんです。だから、もはや通天閣は私にとってプレッシャーの塊。そういう意味では、この先もずっと純粋に通天閣のことは好きになれないですね(笑)。

今一番意識しているのは、来る2025年の大阪万博。またとないビッグチャンスであり、開幕までの盛り上がりをどう作れるかが成功に関わると考えています。

通天閣は展望台ですが、展望以外の付加価値をどれだけ生み出すかがカギかなと。時代の流れに応じて変化してこそ、この街に残し続ける意味があると思うんです。「TOWER SLIDER」はその仕掛けの第一歩でもあります。スライダーの次は何なのか? ぜひご期待ください。

大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【後編】

最後に、読者である若者世代の皆さんにも、今のうちに色々なことにチャレンジしてほしいと思います。少々の失敗も“若さ”で許される、今だけの特権を活かして恐れずに。若い間にどのような時間の使い方をするかで、自分の中の引き出しが増えたり、誰にも負けない一芸が身についたりする。そしてそれが、これからの30代、40代、50代での人の厚みにつながりますよ。

【 完 】

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