新しい大阪、そして日本のために、「京橋」の魅力ある街づくり。
お話を聞いた人
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玉置 紘一さん
昭和17年奈良県生まれの83歳、十津川郷士の血を引く。都島区商店会連盟会長、京橋地区商店会連絡協議会会長、京橋地域安全なまちつくり協議会会長、大阪市商店街総連盟副理事長等を兼任。昭和45年から京橋でガソリンスタンドを経営(現在はビルに)。京橋の地でまちづくりに携わり第一線で活躍してきた、その心意気をキリトリます。
京橋で商売を始め、まず助けてもらった
元々奈良でガソリンスタンドを営んでいたのですが、27歳で奈良から大阪へ出て、資金はゼロからのスタート。親の協力を得て土地を買い、京橋でガソリンスタンドを始めました。最初の頃に約束手形が不渡りになるところを、銀行の担当に助けてもらった。田舎から出てきた私に、「どうしてそこまで」と理由を尋ねたところ「人物を見ている」と言われ、人と大阪という地に心から感謝しました。しかし、そこを乗り切って、支払いに困ることはないと思っていた矢先に、日本経済に影響を与える出来事が起こったのです。
オイルショックを機に固定客をつかむ
それが、1973年のオイルショックです。手に入るガソリンの量は今までの70%ほどに減少、高く売ろうと思えばいくらでも売れる。みんな菓子折を持ってきて売ってくれというような状態でしたが、このパニックは長続きしないと思い、この70%を活かしてお客さんをつかもうと考えたのです。結果、現金客を全部断って、固定客に絞りました。変にその場で儲けたり騙したりするようなことはせず、筋を通して真っ当に商売することを考えていました。そこからはしんどかったけれど順調でしたね。周りにあった大手ガソリンスタンドにも負けませんでしたよ。

京橋地区をまとめる会長になるまで
ガソリンスタンドをやっていた初めの頃、当時の建設大臣が京橋地区の再開発をやるという話からですね。商店街を中心にこの辺の商売している人たちが集まり、団体を作った方が交渉するのにもやりやすいということで会を作ったわけです。自分としてはガソリンスタンドと商店街なので関係なかったのですが、入って欲しいと言われ、断ると名前だけ貸してほしいと頼み込まれました。会費もたいしたことないので了承すると、何と副会長になっていたのです。それまで会員が100店舗ほどある石油組合の支部長をやっていたこともあり、結局、会長から代わってくれと言われ「ウエストストリート京橋商店会」の会長になりました。
成り立ちの歴史と繁華街「京橋」
京橋は戦後の駅周辺に闇市が立った頃から形成された街。私はまだその名残があった時代にガソリンスタンドをやり始めたわけです。京阪が高架になったのが、70年の大阪万博の頃で今よりもっと北を走っていました。京阪京橋駅からJ R京橋駅までの道沿いに露天商などもたくさん出ていたようで、それと対峙するために「京橋地区商店会連絡協議会」ができたと聞いています。その後、高度経済成長期に食堂やキャバレーなどが集まって繁華街に。時を経て暴対法ができた頃に、街から案内所が消え、キャッチ(客引き)が横行することになります。
京橋はとんでもないイメージだった
昔からよく言われたのが「よう京橋で商売してまんな、私やったらようしませんわ」と。それだけ外から見たら相当イメージの悪い街なのです。これは皆で何とかしたいと思っていたところ、2006年に大阪市で “ゆめまちロード大阪”という街をきれいにする取り組みが始まり、都島区役所が手を挙げて、私に一緒にやりませんかと声がかかったのです。キャッチや放置看板、放置自転車などを無くして京橋を良くしたいという思いで「やりましょ」と立ち上げたのが「京橋地域安全なまちづくり協議会」で、J Rに京阪、警察、消防署、民間、町会などが一体となって対策を推進することになりました。
放置自転車の山をどうにかせよ!
当時ひどかったのが放置自転車。1日600台、大阪3大放置自転車のうちの一つに数えられるくらい、京橋の駅前はずらーっと自転車で埋まっていました。まずはこれの強制撤去です。進めていくうちに、区役所を含めて話をして、自転車を撤去するだけでなく、きちんとした置き場所も必要だということで、ラック式の自転車置き場を整備することになるのですが、歩道の前のビルの所有者が反対する。区役所は無理にやらないので、文句が出たら私が一つひとつ説得して話をつけるわけです。
駅前に散らばるゴミの原因を追求
ゴミ拾いでも、多い時に大型ゴミ袋37個っていうのが忘れられないですね。家庭ゴミを捨てる者がいるのかと思い防犯カメラを見ていると、ボランティアで集めるだけ集めたゴミを放置していたり、色々あったのですが、結局はタバコを吸って、座って飲み物や菓子を飲んだり食べたりする時に出るゴミが予想以上に多いことが分かりました。そこで、禁煙にしないといけないとなり、京橋を禁煙にしようと、独自で申請を出し条例を作って4年ほどかかって禁煙にしたのです。もちろん喫煙所も設置しました。

降りてもらう駅としての大前提
そもそも京橋という通過点の駅では、きれいで安全な街でないと京橋で「降りて楽しもうか」とならない。そのうえ、ランドマーク的なものもない。だからこそ、自分たちでもっと考えなければいけない。結局、最後まで残ったのがキャッチの問題でした。キャッチを取り締まるには、迷惑防止条例か道路交通法違反か、これしかない。警察も被害届が出て初めて動けるので、キャッチに会った被害者がそのまま素通りしてしまうと取り締まれないのです。ここでも条例の必要性が出てきて、「客引き適正化条例」の施行にこぎつけました。しかし、ここがゴールだと思っていません。最終的にはキャッチしただけで捕まる条例を作るところまでを計画していますね。
万博に向けて特別なことはしない
万博は一つの大きなイベント。それにより京橋にも人は増えると思いますが、街づくりで考えると、イベントよりも、街自体をきれいにしてお客さんがそのお店を探すような環境に変える、店舗も同じことをしているのではなく、一品でもいいから原価率100%をかけるくらいのことをすれば、それだけが売れずに他も売れるし付加価値もついてくる。継続性が鍵です。そこで企画したのが「京橋食天国」というコンテスト。このシステムを使って次に繋げていこうと考えています。万博は大阪の街が新たに変わっていくスタートです。街は永遠に続くもの、その願いを込めて最低でも10年、20年先を見越してやっていかないといけない。そう思っています。
場所も時間も点ではなく面で考える
今までは、京阪モールにしてもコムズガーデンにしても、各商店街が全部“点“でやっていたところがあって、そうではなく面でやると。例えば、藤田美術館や近くのイタリアンも含めてコムズガーデンまで、環状線から東は蒲生四丁目の飲食店とのコラボなど、スタンプラリー的な巡回できるエリアを構築することが大切だと考えています。イベントのような一過性のものではなく、京橋で降りたらいつでも自由に何かができるというのが理想。今考えているのは、区役所も巻き込んで自動翻訳&対話ができる携帯アプリを京橋地区全体で導入、インバウンドの対応を楽にするだけでなく、京橋を「どこの国から来ても会話できる場所」として確立させることも考えています。
未来の「京橋」街づくりへの心がまえ

街づくりで大切なのは、目先にとらわれず常に俯瞰で大きく考えること。京橋・都島のために、というのが大阪のために、ひいては日本のためになるのです。道にゴミを捨てる人がいますが、家の中でゴミ捨てるか?ということです。むしろ家では掃除もする。その気持ちを地域にまで広げればいいのです。自分の家族を愛するなら、暮らしている地域を、そして日本を愛する気持ちを持ってほしい。街づくりは、本当に街の未来を思い、戦略的に表でも裏でも行動して、時にはパイプを使っていろんな方向から働きかけて、そこまでしてやっとできるかどうかの大変な取り組みですが、私が元気なうちに、後に続く者のためにも京橋についてできるだけのことはやりたいですね。再開発も含め、大阪公立大学も森ノ宮にできますし、今までの「京橋」イメージを払拭し、新しい若者の街を目指しますよ(笑)。