大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【前編】
お話を聞いた人
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高井隆光さん
大阪を代表するランドマークの一つ『通天閣』を運営する通天閣観光株式会社の高井隆光代表取締役社長。新世界とともに歩んできた通天閣の今と、ここまでの道のり、そして未来への想いをキリトリ、前編・中編・後編の全3回にわたってお届けします。
若者たちが絶叫!
通天閣「TOWER SLIDER」爆誕
通天閣は今、若いお客さまでとても賑わっています。皆さんのお目当ては、2022年5月にオープンしたばかりの体験型アトラクション「TOWER SLIDER(タワースライダー)」です。地上22mの通天閣3階から地下1階まで、エレベーター塔の外側をぐるりと1回転半周回するらせん状のライダーは全長60m。たかが滑り台だと侮られるかもしれませんが、それはどうかな(笑)?
約30度の傾斜があるため、スタート直後から急降下するとあっという間の約10秒。想像以上のスリルで一気に滑り落ちるため、チューブ状のスライダー内には毎度お客さまの絶叫が響き渡っています。
こうして今でこそ多くのお客さまにお越しいただいている通天閣ですが、昔はそんなこともなくて。今日に至るまで、波乱万丈の歴史を辿ってきました。
知られざる通天閣の栄枯盛衰
~華々しい誕生から暗黒時代へ~
通天閣が建っているのは、1903年(明治36年)に第5回内国勧業博覧会が開催された場所。会場の跡地利用として1912年(明治45年)にルナパーク(テーマパーク)が完成し、同時にシンボルタワーとして生まれたのが通天閣です。そして一帯は新たな街・新世界となりました。当時の大阪は「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれ、世界有数の都市として栄えていた時代。その中でもひときわ賑わう大阪の中心地が、ここ新世界だったのです。
ところが、1943年(昭和18年)に足元の映画館が火災を起こし、通天閣も巻き添えに。第二次世界大戦中で鉄を供給する必要もあったことから、そのまま解体されてしまいました。それから戦後もしばらく、新世界は何もない街だったとか。そこで住民運動が起き、復興のシンボルとして通天閣が再建されたのが1956年(昭和31年)のことです。
念願の二代目・通天閣が誕生して、翌年度には過去最高の来場者155万人を記録。ただ、完成した時が一番のピークで、以降は年々来場者の減少に悩まされることになります。戦後復興の勢いで公害による大気汚染が進んだことから、せっかく展望台に上ってもスモッグできれいな景色が見渡せなくなっていったのです。また、新世界は地域労働者が集まる街となり、外からのお客さまが寄り付きにくくなっていたことも原因の一つでした。
さらに、1973年(昭和48年)からはオイルショックの影響で節電を強いられ、翌年より夜のライトアップを取りやめることに。新世界の街全体も暗くなってしまい、通天閣の来場者はさらに減って20万人を割ると、次第に経営も放漫になり、ついには身売りの話まで……。どんどん暗くなっていく、正に通天閣暗黒の時代です。私はそんな最中の1974年(昭和49年)、新世界に生まれました。