大阪のランドマーク『通天閣』波乱万丈の歴史【中編】
通天閣の袂(たもと)で生まれ育って
私は通天閣暗黒時代のど真ん中である1974年(昭和49年)生まれ。実家は通天閣の近所にあり、生まれも育ちも生粋の新世界です。
通天閣に身売りの話が出た際、なんとか大阪の人間で守っていこうと立ち上がった人々がいるのですが、その中の一人が私の祖父でした。そこからずっと、祖父や後を継いだ父の頑張りを見ながら、通天閣のそばで大きくなりました。
夕方、通天閣の時報が鳴ったら外で遊ぶのをやめて家に帰る、明日の天気は通天閣のてっぺんの丸いサインで確認するなど、子どもの頃からずっと通天閣は生活の一部でしたね。
ただ、通天閣は間違いなく街のシンボルであるものの、人々を惹き付けるような魅力のあるシンボルにはなりきれなくて。新世界も今でこそ串カツ屋がたくさんあって賑やかなイメージですが、当時は何もない、個性のない街でした。下町らしく人情味はありましたが、ガラが悪くてダーティー、近寄りがたいディープな街。周辺に天王寺公園や動物園など色々なコンテンツがあるにも関わらず、うまく活かしきれていませんでした。
「どこに住んでますの?」と聞かれて「新世界」と答えると、「ええとこ住んでますねぇ」と言われる。決して羨ましがられているのではなく、嫌味でそう言われるんです。だから新世界はもっと変わらなければいけないし、「いつか新世界を本当に“ええとこ”にしたい!」と思っていました。
通天閣の一員となり真っ先に宣言「3か月でつぶす!」
「いつか……」と思いつつ、大学卒業後は一般企業に就職していた私。ですが、31歳になる2005年(平成17年)、通天閣観光株式会社で代表取締役を務めていた祖父が亡くなったことから後継ぎとして入社し、副社長に就任しました。
「よし! 通天閣を、新世界を変えよう!!」と意気込み最初に掲げた目標は、3か月で通天閣をつぶすこと。当時の状況にもどかしさや腹立たしさを抱き、「いっそ変わらないならつぶしてしまえ! スクラップ&ビルドじゃー!!」という勢いでした。
もちろんそんな状態では誰の賛同も得られず、早々に白旗を揚げましたよ(笑)。社内には問題が多いものの、培ってきた歴史や古き良き流れみたいなものがある。それを痛感して「郷に入っては郷に従え」と考えを改め、作戦を変更しました。
まずは、私のことを従業員たちに分かってもらうことを第一に。こちらから積極的に声をかけたり、私の考えをきちんと言葉にして伝えたりしながら、人間関係を築いていくことを大切にしました。そうすることで周りにも「いつか誇れる通天閣、新世界に……」という想いが浸透していきました。
通天閣復活のキーパーソンはビリケンさん
通天閣再生を目指し、私が初めて取り組んだ大きな仕事は、ビリケンさんのPR活動です。
通天閣とビリケンさんの歴史は古く、1912年(明治45年)に初代・通天閣とルナパークが誕生した際、パーク内にビリケン像を安置するビリケン堂があったことにはじまります。
ビリケン像はルナパークの閉鎖とともに長らく行方不明になっていましたが、1979年(昭和54年)に二代目・ビリケン像が作られ、通天閣に安置されました。最初は客寄せとして入口にいたのですが、どうも怖がられて人が寄り付かず、逆効果になったそうで。途中ゲームコーナーの隅に追いやられたりしつつ、最終的には展望台に納まり、以降は皆さんご存知の通り。足を撫でるとご利益がある、幸運の神様として親しまれてきました。
ただ、このビリケンさん関西ではお馴染みの存在である一方、全国的には知られていなかったんです。そこで、ビリケンさんの認知度を上げることで通天閣にも興味を持ち、来ていただけるきっかけになればと考えて、ビリケンさんのコンテンツを強化しました。
例えば、ビリケンさんを可愛らしくキャラクター化して、そのグッズを制作。通天閣だけではなく、大阪の主要駅にある土産物店などで販売することで、遠方から関西を訪れた方にもビリケンさんをアピールしました。
最も話題になったのは、2005年(平成17年)9月に実施したビリケンさんの東京出張。渋谷で開催された「大・大阪博覧会」に文化観光交流大使として出席するため、初めて通天閣の外へビリケンさんを出張させました。
「大事な神様であるビリケンさんを運ぶなんて」と社内では反対の声が上がりましたが、だからこそインパクトがあると思って。出張当日は通天閣から関西国際空港までリムジンに乗せて、飛行機内では荷物扱いではなくきちんと席を確保して座らせました。ただビリケン像を運ぶのではなく、神様なのだからと丁重に扱うことで世間に面白がられ、多くのメディアで取り上げられましたね。
こうしてビリケンさんが有名になり、遠方からビリケンさん目当てに通天閣を訪れてくださるお客さまが増えました。またこの頃、串カツブームに乗って新世界に串カツ屋が急増したのですが、店先にビリケン像のレプリカを置く店が増えて。街全体でビリケンさんを打ち出すことで人が集まり、活気づいていきました。